2015年6月28日日曜日

ヤマダ電機、突然の大量店舗閉鎖 復活は難しい? (4)

試行錯誤というより迷い


 では、ヤマダのようにダウン・トレンド(下降傾向)に入ってしまった業界トップ企業が復活する方策はあるのか。

 率直にいえば、それは難しい。突然ではないが、恐竜が死滅するようなものだ。大きくて栄華を誇っていただけに、なかなか環境の変化に適応できない。14年末にヤマダが街の中小電器店との提携を発表した際、筆者は前出記事でこう指摘している。

「課題としては、個々の電器屋がどれだけ親切・親身になって高齢者世帯に入り込めるかだ。電器屋が製品の配置やインストールだけでなく、便利屋を兼業して家具の移動や配線工事、不要品の引き取りまで手がけるようになったら、その世帯の消費の大きな部分を引き受けられるようになる。売るモノは家電に限らず、総菜から、弁当、食材まで納品する仕組みまで視野に入る。専用タブレットを世帯にあまねく配ってしまうくらいのビジネス・モデルまで踏み込めば、ヤマダとしては一気に商機が広まるといえよう」
 だが、こうした動きは本格的に起こりそうにない。

ヤマダが住宅メーカー、エス・バイ・エルを傘下に収めスマートハウス事業に乗り出したのが11年のことだったが、顕著な業績を残せていない。今年5月には「ビジネスをスピードアップするため」(山田氏)にソフトバンクとの資本・業務提携を発表したが、同社の経営方向の試行錯誤というより迷いを強く感じる。

 業界の恐竜は、変化する環境に戸惑いながら徐々に体力を奪われて、足を止めてしまうのではないか。現在72歳の山田氏は、創業者でもあり社長復帰してまだ2年なので、経営意欲は高く、山田氏の目の黒いうちは大丈夫だと願いたい。

(この項 終わり)

2015年6月27日土曜日

ヤマダ電機、突然の大量店舗閉鎖 復活は難しい? (3)

相次ぐメガ・リテールの破綻


 業績低迷について、山田氏の悩みは深い。連結の年商は11年3月期に2兆1500億円とピークを記録し我が世の春を謳歌したが、その後は減少の一途。15年3月期では売上高1兆6643億円(前年同期比12.1%減)、営業利益199億円(前年同期比41.9%減)、経常利益355億円(前年同期比29.2%減)という結果に沈んでいる。

 実店舗の巨艦主義に走ったメガ・リテール(大規模小売企業)が破綻した例は記憶に多い。百貨店ではそごうが、総合スーパー(GMS)ではダイエーがそれぞれ一時は栄華を誇ったが、前者は小売業としては当時(00年)日本最大の負債を抱えて民事再生法を申請し、後者も経営破綻して今年1月イオンに救済合併された。

 アメリカでも全米最大の百貨店チェーンだったシアーズ・ローバックが、不振のため05年に業界下位のKマートに実質救済合併された。家電量販店では全米に4400もの店舗を展開していた業界2位のラジオシャックが、今年2月に倒産した。

(この項 続く)

2015年6月26日金曜日

ヤマダ電機、突然の大量店舗閉鎖 復活は難しい? (2)

この多店舗戦略について筆者は、過去に本連載記事で限界がきていることを指摘していた。

「日本に『市』は790ある(2008年時点、以下同)。『市』となる要件の一つは人口3万人以上で、つまりヤマダは日本のすべての3万人以上の地域市場に出店を終えてしまっているということだ。ちなみに人口5万人以上の都市数は541にすぎない。ヤマダの1店舗当たりの平均年商は19億円程度ということになるが、3万人規模の市には1万世帯くらいが生活すると見て、それらの商圏で全世帯が年間にヤマダの店舗で19万円程度の消費をしているという計算が成り立つ」(2014年12月12日付本連載記事より)

 ヤマダの山田昇社長は今回の閉店を発表する直前の5月21日付朝日新聞のインタビューで「出店余地はなく、ビジネス・モデルを変えないといけない」と語っており、今回のスクラップ&ビルドは明確な戦略転換だと認めている。つまり全社経営戦略の本格的な変更による電光石火の大量店舗閉鎖だったのだ。そんなことができるのは、創業社長である山田氏ゆえだろう。

(この項 続く)

2015年6月25日木曜日

ヤマダ電機、突然の大量店舗閉鎖 復活は難しい? (1)

5月末、大手家電量販店チェーンのヤマダ電機が46店舗を閉鎖した。5月25日に発表した時点ですでに3店舗を閉鎖済みであり、残りの43店舗については発表直後の閉鎖となったため、地域の消費者や従業員を驚かせた。

 一方、年内に新規出店も行う予定であり、ヤマダとしては「店舗のスクラップ&ビルド」だとしている。閉店するのは、テックランドNew江東潮見店(東京都江東区)、同名古屋南丹後通り店(愛知県名古屋市)、同枚方店(大阪府枚方市)、同新南陽店(山口県周南市)など地方や郊外にある不採算店が中心。これまでの拡大路線を転換し、東京・八重洲など都市部の大型店や免税専門店といった収益力の高い店づくりに注力するとしている。

 日本全国津々浦々に、家電の大型量販店舗を展開する。自社だけの店舗展開だけでは間に合わなければ、業界他社をM&A合併&買収)して「マーケット・カバレッジの最優先」という戦略を徹底する。これが従来のヤマダの「勝てる王道戦略」だった。その結果、15年3月期末での店舗数は1016店舗にまで達していた。

(この項 続く)

2015年6月24日水曜日

株主総会の週、立て続けて出席

株主総会の季節がやってきた。3月期決算の会社の大多数が、今週来週に総会を持つ。6月末までに定期株主総会を持つよう定められているからだ。

私も今週は3社の総会に。一般株主としてではなく、会社側の役員や監査役などの立場だ。いずれも非常勤ではあるが、総会となると何か話すことになる。

いつも改まった席は苦手だが、喋るのが商売とも言えるので、何とかこなす。ネクタイを締めるのがもうどうも、、、

2015年6月23日火曜日

化粧品ポーラ・オルビス “感激”経営で訪問販売会社から変身(4)

鈴木社長の巧みな人心掌握術

持ち株会社を設立して複数の事業会社を傘下に置く体制は、化粧品の業態においては、複数ブランドの展開を容易にする。実際、現在では9つのブランドで事業ポートフォリオを組成する一方、ポーラフーズなどのノンコア事業は早々に売却している。鈴木体制になってから立ち上げたブランドの中には「THREE」(スリー)のように大成功したものもある。

 複数の事業会社を立ち上げるに当たっては、従来のブランドに加えて、外部会社をM&A合併・買収)したり、合弁を組んだり、その経営手法は柔軟かつ機動的だ。また新しいブランドや事業会社を任せる人材も、必要とあらば外部からの登用を厭わなかった。これも以前にはあまり見られなかったことだ。

 新たに招請された社長の一人に話を聞いた。
「実は、私は鈴木社長と年齢はあまり変わりがなく、業界経験は私のほうが長かった」
 同氏はポーラ・オルビスグループへの入社を決めた経緯について、「鈴木社長が、『金は出すが、口とヒトは出さない、思うとおりのブランドを立ち上げてくれ』と言ってくれたからだ」と述懐した。さらに、鈴木社長の人柄を表すエピソードを教えてくれた。
「仕事を始めてしばらくして、鈴木社長と話す機会があった。その時、社長は私に『あの時、面接されていたのは自分のほうだった』と言ってくれた」

 採用してくれた上司にこんなことを言われては、部下としては感激奮起するしかない。鈴木社長とはまことに「部下たらし」に長けた、優れたリーダーだと驚かされた。

 ポーラが次の段階として目指しているのが、国際化なのだろう。11年には米H2O PLUSを、12年には豪Jurliqueを立て続けに買収している。これからの5年間で、資生堂・花王という2強の牙城にどれだけ迫れるのか、けだし見ものである。鈴木時代の後半戦が始まる。

(この項 終わり)

2015年6月22日月曜日

化粧品ポーラ・オルビス “感激”経営で訪問販売会社から変身(3)

05年に「ポーラ ザ ビューティ」を主導し、販売方法を訪販からサロンでのエステを含むショップ型へと舵を切った。ポーラ単体の国内売り上げは、01年度に745億円(業界シェア6位)あったものが、10年度には415億円(同12位)と落ち込むが、この業態変更により13年度には562億円(同7位)としっかり改善してきている(以上、「週刊粧業」の各年統計による)。

 この選択は正解で、日本の化粧品の訪販マーケットは富士経済によれば00年に約2650億円あったのが落ち続け、10年には2000億円を切ろうというところまで下がった。ポーラが危ういところで難を逃れた戦略的判断となった。

「凡庸な訪販化粧品の1社」というイメージから脱却するために、種々の活動も繰り広げた。11年には「AAA(アンチエイジングアライアンス)宣言」をしたかと思えば、12年に国際化粧品技術者連盟世界大会でポスター発表部門最優秀賞を獲得するなどした。

鈴木社長の経営改革は、マーケティングの分野にとどまらなかった。06年には持ち株会社として現社を立ち上げ、統合的で機能的なガバナンス体制を確立し、10年には東証1部上場を果たす。家業、同族的な経営体制から、大手製造会社にふさわしい体制に移行した。

(この項 続く)