私は全共闘世代だ。大学構内にタテカンが出現して物議をかもした時代に学生時代を過ごした。タテカンを排斥しようとした側が持ち出したのは、「大学の美観」論だった。手づくりで粗暴、手書きなので粗野に映る、だから静謐であるべき大学のキャンパスにはふさわしくない、というのだ。
しかし、大学運営や授業に対する不満、政治や体制、社会に対する世代としての大きな欲求不満の表出、そんな学生ならではの言論表出の手段として、タテカンは存続し続けた。「美観」と「言論」、どちらが本質的に重要なのか、大学人たちも本能的に理解していたからタテカンは定着していった。
街中における街宣車が大きな声で四六時中、主張を訴えるのは、社会生活にとっては騒音となってしまうかもしれない。しかし、選挙期間中に選挙カーが街をまわるのを私たちは受け入れている。あれは、選挙期間中という時間的な限定の下に、言論活動が重要ということで受け入れられているのだ。選挙カーには時間的限定が付与され、タテカンには大学構内という場所的限定が与えられている。
大学にのみ偏在するこの例外的な言論活動を、誰も迷惑をこうむっていない(つまり周辺住民はすでに地域の伝統として受け入れている)のにもかかわらず排斥するのは、自由な言論活動に対する弾圧だと私は見ている。
そして、怖いのはそのような構造に気がつかないで、景観規制の論理をいたずらに学問と言論の府に適用しようとしている京都市役所の役人たちだ。
(この項 終わり)
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