削除された書評には真実があったのか
そもそも今回の発端は、ライブレボリューション社増永寛之社長のご著書に対しての私の記事だった。改めてその『宇宙一愛される経営』(増永寛之著、総合法令出版、2007年刊)を紐解いてみると、そこには美しい言葉がある。第2章の第3項の小見出しとして掲げられている次の言葉だ。
「礼儀正しさは強力な武器となる」
同社の取締役である金子真歩氏が取った今回の行動はとても礼儀正しいものだったとは思わない。
実は金子氏ご自身も一冊ご著書を公刊されていて、言論人という側面を有する。私という言論人の端くれが増永寛之社長の言論活動について意見を発表した。その私の言論活動に対して、金子氏も言論人なら言論によって異議を唱えて欲しかった。言論人同士なら益々「唯一の武器は言論だ」という土俵に立たなければならない。言論(意見・心情・立場)は互いに異なるものであっても、それぞれの意見発表の場の保障、つまり言論の自由という形では、増永氏も私も金子氏も寄り添わなければならないのだ。その意味からも今回の出来事はとても残念だ。
また増永社長の同書で、第1章第1項の項目タイトルとして真っ先に掲げられているのが
「価値観の統一が成功の鍵を握る」
という言葉だ。金子真歩取締役は増永社長と共に同社の創業に参画されたほどだから、よほど社長直近の経営幹部とお見受けした。そうだとしたら、金子氏の価値観とは増永社長のそれとは統一されている、統一されていたということなのだろうか。具体的には、コンプライアンスについての価値観は同社ではどのように共有されているのだろうか。
こんなことをあえて指摘するのは、今回のことは金子氏が「これが当社の見解」と繰り返し表明しているように、個人ではなく同社の取締役として行動してきたからだ。そして同社とは、その就職セミナーには年間2万人もの学生が参加し、新卒学生による「魅力的企業ランク」で1位に輝く(これらは同社サイトによる)などという、著名で公共性の高い会社である。公共性の高い会社の取締役が会社を代表して言論の自由に対して不当(違法の可能性がある)な働きかけをしたというのが今回の事件の構造だ。これは公益目的の観点からとても重要だ。
さて、金子氏がライブレボリューション社を代表してかくも執拗不当に削除を求めた拙ブログ記事は、今回の連載ブログ記事の2回目(次のURL)で示したように、私の主張では全くなかった。「戌年リーマン、読む 聴く メモる」というブログ記事で同書に対する書評記事があったのを転載紹介したまでである。
2013年9月4日に来信した金子氏メールでは、その元記事について
「本書評の表現は、やや辛辣かつ、弊社に対する攻撃的論調をもって構成されている」
とはしている。しかし、「戌年リーマン、読む 聴く メモる」氏の原書評が「やや辛辣」というほどのことだけだったら、あれほどまで強引・執拗・不当な金子氏の私に対する削除要請が、私には理解できない。元記事ブロガーの方がいかなる経緯により実質削除に応じられたのかについて私は知る立場にない。しかし私に対しては、その執拗な削除要求のプロセスを通じて金子氏は一貫して「元記事が事実に反していたので」とは主張してこなかった。そうすると?しかし、何しろ当該ブログ記事が二つとも読めなくなったので公に検証することが出来ない。言論の自由の観点から、私は残念に思う。
(この項 終わり)