そもそも今回の都知事選は「舛添的でないもの」の選択、収斂として展開されていたはずである。そうだとしたら、鳥越氏はこの時点で完全にその資格を失ったと、私は考える。
「文春」の後を追って、「週刊新潮」(新潮社/8月4日号)は被害女性当人への取材録を公表している。こちらの記事についても鳥越氏はただちに名誉毀損で告訴し、事実無根だとしている。
都知事という重要な公職の候補者にもかかわらず、鳥越氏は自らの説明責任から逃走した。また、問題指摘に対して言論の開示によって対応せずに、弁護士を通じて刑事告訴したことも、ジャーナリストとしての鳥越氏の自殺行為といえる。
ちなみに「新潮」はその取材を03年に行っていたといい、最近スクープを連発してきたライバル誌「文春」の先行報道に焦って古い取材録を持ち出したともいえる。「新潮」は「文春」を凌ぐ生々しい報道を行ったのだが、そんな材料を持っていたのなら、なぜ「文春」より先に記事にしなかったのか。
被害者たちが当時記事化を望まなかったというが、「文春」は今回その壁を乗り越えて報道した。週刊誌ジャーナリズムというのは大胆な報道を先行させて世の検証を仰ぐ、そして社会大衆の審判を促すというところに真骨頂がある。「文春」は今回も「新潮」を凌いだといえる。
今回の都知事選は、調子よく後出しじゃんけんで出馬した候補者が、後出し記事による「新潮」で引導を渡された、という妙に平仄が合った構図で終わった。
鳥越氏を都知事として迎えなかった都民の選択に、敬意を表したい。
(この項 終わり)
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